「誰かが幸せになると、自分もちょっぴり幸せになるよね。
君が幸せになると、私も幸せ。私も幸せになると、君も幸せ。
ずーっと、ずーっとくりかえして。ほら、幸せスパイラル」
(ニコニコ大百科より、「幸せスパイラル」)
でも、この「幸せスパイラル」という言葉や意味は、すごくいいなと思って、心にずっと残っています。
誰かを笑顔にしたい。誰かを喜ばせたい。
そうして行った行動は、いつか必ず人を幸せにしますし、人の笑顔に自分も救われるもの。
「情けは人のためならず」と言いますが、本当にその通り。
人に行った親切は、自分のためだけでなく、やがては自分に返ってくるし、
そして何より相手の幸せな表情を感じることで、親切をした自分も幸せになれる。
親切にされた人は、他の誰かにその親切を返し、幸せを感じた人も、誰かを幸せにしたくなる。
それこそが、まさに彼女の言う「幸せスパイラル」なんだと思います。
でも今の時代、「幸せスパイラル」を広めるより、もっと大切なことがあるように思うんです。
それは「憎しみスパイラル」を拡散させないこと。
「幸せスパイラル」が人を幸せにするものならば、
同じように「憎しみスパイラル」は、怒りや憎しみ、恨みや苛立ちを人に伝えるもの。
自分が感じた苛立ちや怒りを他人に広めることで、さらに人を不快にし、
その人が別の形で他の誰かに苛立ちをぶつける。
その様子も同じように「スパイラル」なんですよ。
しかも「憎しみスパイラル」が厄介なのは、「幸せスパイラル」よりも感染力を持っている上に、
立場の強い人から弱い人へ感染すること。
上司から部下に。先輩から後輩に。力のある人から力のない人に。気の強い人から気の弱い人に。
ぶつけた方はそれですっきりするかも知れませんが、ぶつけられた方は確実に心に苛立ちを残します。
さらに、それをぶつけた人に返すこともできず、立場の弱い人に対して別の形で発散させる。
そのスパイラルは、感じた苛立ちを食い止められる人に出会わない限り、感染し続けるしかないんです。
生きていれば、嫌なこともありますし、腹の立つこともあります。
時にはあまりに理不尽なことに、はらわたが煮えくり返るような怒りを覚えることもあるでしょう。
でも、それを不特定の誰かに広めてしまえば、その誰かを間違いなく不快な気持ちにさせます。
たとえそれが改善や注意を促す目的であったとしても。
与えられた苛立ちに対して、他の誰かにその苛立ちを返さない。
そんな「憎しみスパイラル」を断ち切るのは、本当に苦しいことです。
他の誰かに発散させてしまったほうが、楽になるに決まってます。
しかも自分で食い止めたとしても、誰も褒めてなんてくれません。
感じた苛立ちを、人知れずやり過ごす以外にないんです。
それでも、「憎しみスパイラル」を止めることは、「幸せスパイラル」と同じくらい、
いや、それ以上の大きな意味があり、褒められて然るべきだと思ってるんです。
今は誰もが怒りの矛先を探し回ってるように思います。
誰かが投げた理不尽な振る舞いや不用意な発言を見つけては、それに対して一斉に攻撃をしかける。
そうして完膚なきまでに叩き潰すことで溜飲を下げては、また別の攻撃先を探す。
そんな粗探しが日常になり、攻撃先を誰もが簡単に拡散でき、怒りの連鎖を生んでしまうからこそ、
「憎しみスパイラル」を伝染させないことに、もっと注目してもいいんじゃないかと思います。
ひとつの物事には、いろんな立場の人が関わってます。時と場所、環境だってさまざま。
そこから何を感じるかも人それぞれで、自分とは違う考え方の人だっている。
ひとつの立場から見て正しいことも、別の視点から見ると違って見えることもあります。
だからこそ軋轢は常に絶えず、攻撃の火種を生み、すごい速さで増殖していく。
そんな様子はできるなら見たくないし、もしそれを見て苛立ちを覚えたとしても、
せめて自分は、その「憎しみスパイラル」には加担しないようでありたい。
そんなことを最近は思います。
要は、誰かが苛立ってると、自分もちょっぴり苛立つよねってことですよ。